社会インフラとしての「ガッコウ」

社会不安の高まりから、一斉休校を行い、徐々に解除されてから、約1年が過ぎた。昨年度の罹患者数や重症者及び死亡者数などの状況から見れば、現在の方がより厳しい状況であると感じているが、様々なことが判明し、一斉休校の必要性がないということだろう。たしかに、年齢の若い人への重症化率が低いことも一要因であるが、一斉休校による「社会活動の停滞」が想像以上に大きかったことも考えられる。いわゆる学校が「社会インフラ」の重要な一翼を担っていたという事実である。

一斉休校の理由付けとしては、罹患して家庭内に持ち込むことや高齢者に罹患させる可能性が高いということで、人の動きを徹底的に止める名目であったはずである…。しかし、現在では一斉休校を行ったことで、大きな社会混乱を引き起こした可能性が論じられている。子供たちが家にいることで、仕事に出ることが難しいご家庭が想像以上に多かったことや自宅にいることへのストレスで精神的な面への影響、結局のところ近隣で遊ぶ子供が目立ったことなどで、休校のメリットよりもデメリットが目立ってしまったのである。

また、休校による「社会活動の停滞」だけでなく、「オンラインでの対応の格差」が露見してしまった。IT関係のインフラの整備や教員のスキル、準備に向けた格差など、今まで手付かずだった部分が問題化したのである。しかも、オンラインでも知識としての学力向上はできたのかもしれないが、学びを通じて身に付ける知恵や教養は十分ではなかったといえる。加えて、オンラインでの対応では限界となる各種行事など、総合的に学校で学ぶべき多くの機会が失われたことへの将来への危機感のほうが社会的損失として大きかったとも言える。私学の立場から見るに、オンラインでの授業でも登校での授業でも、設備やスキル、何よりも生徒たちに学ぶ意欲が高いので、十分に学力を伸ばせる。すでに通信制の学校もあり、近年では人気校になっていることなどからも、学力向上の成果やオンラインでの対応力は実証されていると思う。だからこそ、オンラインでは学べない「ガッコウ」生活がより重視され、その機会が失われること、さらに社会活動にブレーキがかかることへの危機感が高まったのである。

このような背景から、今年度の緊急事態宣言下でも、多くの学校が登校型の生活を送っているのは、「社会インフラとしの役目」を理解しているからにほかならない。学校が止まることは、社会活動が十分に行えないことを実証したことになった。これからも「ガッコウ」への社会インフラとしての期待は高まるであろう。物流が止まれば経済が止まるように、「ガッコウ」が止まると社会が止まるのである。

かけがえのない学校生活を失った年代には、一教員として心を痛めているが、学校の存在意義、社会インフラとしての重要性、オンライン対応の可能性、学び方の自由化など、多くのことに気が付き、学んだ1年であったともいえる。今後は、どの学校も「学びを止める」ことはないであろう。本校(神田女学園)のように、通常の登校を行い、必要に応じてWebをミックスしていく…、そんな次世代の「ガッコウ生活」が始まっている。

 

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